6000句御礼/毎日三句の重なり

毎日毎日続けていること。

あなたは暮らし中で
何か、毎日続けていることがありますか?

毎朝庭の花を愛でることであったり、
毎夕近所の飼い犬に挨拶することであったり。

それがいつの間にか、
暮らしの呼吸のようになっているもの。

毎日詠んでいる俳句の毎日三句は
私にとってそんな呼吸のようなものです。

2011年10月30日から欠かさず5年と7ヶ月。
一昨日で日数にして2000日、6000句になりました。

学びが変わった

どうしてそんな毎日俳句を詠んでいるの?
と聞かれることがあります。

2011年の秋ごろ、私は
Twitterで140文字ぴったりのエッセイを
書いて投稿するという自分遊びをしていました。

それを京愛師匠(俳人協会終身会員)という方が
Facebookで目にとめて
俳句を薦めて下さったことがはじまりでした。
(※この京愛師匠は俳人石田波郷の
孫弟子にあたられる方です。
ですので私は勝手に石田波郷の
曾孫弟子と言っています。)

「うん、文ちゃんは俳句を詠むといいよ」

「俳句教えて下さるんですか?」

「教えないよ。たまにチャチャはいれるかもしれない」

といって京愛師匠が最初に下さった指南は3つ。

①俳句の指南本は読まないでね
②最初はルール無視でOKよ
③まずは詠んで文ちゃんの中の
五七五のリズムができてくる方が先だよ。沢山詠んでね。

俳句はどこか敷居が高い、そんな風に思っていたのを
「あ、俳句を詠んでみよかな」と思えたのは
この3つの指南を
「面白い」と思えたからでした。

何かを学ぶということは、まずルールがあって、
セオリーを学んで、それから取り掛かるもの。

どこかにそういう思い込みがあったのでしょう。

今思うとこの師匠の3つの指南は
その私の思い込みを外してくれる言葉でした。

まずは詠んでみる。
上手い下手でなく言葉のリズムを味わう。
そして、沢山沢山詠んでみる。

沢山詠んでみようと思って始めた毎日三句。
6000句はそんな毎日毎日の重なりなのです。

 

続けた先に見える風景

俳句を続ける中で私の身体が学んだことは
幾つもあります。

一度に伝わるのはひとつのことだけということ。

身体に響く言葉かどうかは自分が知っているということ。

詠む人と、読む人で世界はつくられているということ。

細部にこそ、ひかりは宿るということ。

目に見えることしか、目に見えないことは
伝えられないのかもしれないということ。

このことは言葉にすればこれだけのことです。

それでも、俳句を詠まなかった頃の私と
6000句詠んだ私とでは
この言葉は全く別の深さをもって感じられるのです。

読んでくださっている皆さん、いつもありがとうございます。

ささやかな句作ですが、
これからも十七文字で表現することを
続けていきたいと思っています。

これからも読んでいただけたら嬉しいです。

“桑の実やきれぎれ歌を口ずさみ”


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