71年前、この国には戦争があった

ほんの71年前。この国には戦争がありました。
その中でも激戦地であった沖縄。
6月23日は沖縄の「慰霊の日」です。
「慰霊の日」は沖縄戦の組織的戦闘が終結した日になります。

この投稿の文章は、2014年、沖縄のハンセン病療養所国立療養所沖縄愛楽園に法律相談員として伺った際の訪問記を、全国青年司法書士協議会の月報に寄稿した原稿をリライトしたものです。

戦争も、ハンセン病による差別も、人が人に対して引き起こした悲劇です。この国に二度と戦争がないよう、人が人を差別する悲劇が無くなるようにと心から思います。

だからこそ日本国憲法の戦争放棄があり、基本的人権の尊重があるはずです。
沖縄「慰霊の日」に寄せてこちらに再録します。
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沖縄「愛楽園」を訪問して2014

きっかけ

2014年11月24日(日)から25日(月)にかけて全国青年司法書士協議会(以下「全青司」)の人権擁護委員会が主催した国立療養所沖縄愛楽園(以下「愛楽園」)の法律相談会の相談員として参加させていただきました。1日目は平和を考える体験ツアーとハンセン病元患者の方々の居住する愛楽園の見学、2日目には入所者を対象とした法律相談会のスケジュールが組まれていました。

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ハンセン病は、人類の歴史上もっとも古くから知られる病気のひとつです。治療法が確立されるまでは、「隔離」、「断種」(避妊手術)などの対象とされてきました。1953年にはハンセン病患者を隔離する「らい予防法」が成立し、患者たちは社会的な労働を禁じられ、療養所入所者は外出を禁止されており、「らい予防法」は1996年に廃止されましたが、2001年に違憲判決が出るまで、ハンセン病元患者に対する「差別」は正当化されてきた歴史があります。

アブチラガマ訪問

初日の午前中は平和を考えるツアーに参加させていただきました。
向かった先は、「アブチラガマ」。沖縄本島南部には〝ガマ〟と呼ばれる自然洞窟が無数にあり、戦跡となっています。 その中でもアブチラガマは、全長270mの壕内の、ほぼ全域が公開されおり、数少ない平和学習の場として修学旅行生を中心に年間15万人が訪れる鍾乳洞です。

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非常用以外の照明が無く、 沖縄戦追体験として「漆黒の闇」を体験することが出来ます。私たち4人も南部観光総合案内センターで懐中電灯をレンタルし、ヘルメットをかぶりガマ(洞窟)へと向かいました。地上は何の変哲もない畑や舗装された道路。その道を歩きながらもガイドの方は今この歩いている下こそがアブチラガマだと言います。道の脇にある入り口。そこから一気に湿った割れ目の中へ下っていきました。

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このアブチラガマは昭和19年7月頃から日本軍の陣地としての整備が始まり、20年3月23日南部が艦砲射撃をうけ翌24日から糸数の住民約200名がこのガマに避難しました。当初、日本軍の陣地・糧秣倉庫及び糸数住民の避難壕として使用されていましたが、地上戦が激しくなり南部への危険が迫ってきた4月下旬頃には、南風原陸軍病院の分室として糸数アブチラガマが設定され、5月1日から約600名の患者が担送されたそうです。病院の撤退後は、重症患者が置き去りにされ、米軍からの攻撃をたびたび受け、壕内は悲惨を極めた地獄絵が展開されたそうです。

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実際にアブチラガマ内を歩いていると、当時のものであろう薬瓶や茶碗などの生活用品がいくつも目に飛び込んできました。ガイドの方の丁寧な説明と、静かな口調で語られる戦時中の惨状の物語。中は入り組んでいるものの思いのほか広く、ひたすら闇また闇。沖縄戦の惨状を聴かされたあとはただただ言葉がありませんでした。今、この時代の日本。アブチラガマの中に実際に入って何を感じるか。感じることは人それぞれとして、多くの人にこの経験して欲しいと感じました。

「愛楽園」

那覇空港より車で2時間ほど、沖縄県名護市北部の屋我地島という小さな島の北端に、愛楽園はあります。今回「愛楽園」の園内ガイドをして下さったのは、ガイドの中で唯一実際に「愛楽園」で生活をされていた平良仁雄さん。私にとっては初めての元ハンセン病患者の方との出会いでした。平良さんの語られるご自身の体験としての隔離生活や、奪われた自由、家族から受けた対応への想いを聴かせていただきました。

一番心に残ったのは、愛楽園に訪ねてきた人が入所者と面会する際に使用されていた面会室での平良さんの体験です。面会室は真ん中が壁で仕切られていて、面会は仕切り越しに、職員立会いのもとで行われていたそうです。9歳で愛楽園に入所された平良さんは、かつては自分を大変かわいがっていた父親が自分の頭をなでることもなくそのまま帰って行ったことに深く傷ついたと話されました。

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『いのちの初夜』という小説があります。これは文学青年として活躍しながら20歳でハンセン病を発症し、23歳で結核のため夭逝した作家・北條民雄の、ハンセン病を描いた小説です。ネットの青空文庫でも読めるので、是非一読していただきたい作品のひとつです。

この北條民雄の人生もまたハンセン病で翻弄された人生でした。1914年生まれ。徳島県育ちで、15歳で上京、夜間学校に通うかたわら、友人たちと同人誌を起こすなど、精力的に活動していたが、結婚後、19歳でハンセン病の疑いが出て離婚。その後は、東京東村山市の全生病院(現・国立療養所多磨全生園)で執筆を続けました。川端康成の手ほどきを受け世に送り出された著作『いのちの初夜』は、1936年に文学界賞を受賞していますが、実は北條民雄の死後80年近くがたって、ようやく本名の「七條晃司」が公表されたといいます。北條はハンセン病と分かった時に「戸籍」を抜かれていたため、「存在しない人」「幻の作家」とされていたのでした。存命の親戚すら、作家・北條民雄の存在を知らなかったといいます。
北條民雄の人生。平良仁雄さんの人生。そして数多くのハンセン病の方の人生。そこには、謂れのない差別により踏みにじられた人権があること。そのことを他人事としてではなく、自分事として向かい合いたいと深く感じました。

2日目は朝から14時近くまで、愛楽園園内の方達への法律相談会をさせていただきました。この日は沖縄会の会員の方や沖縄の合格者の方も合流して二人ひと組になり相談をお受けしました。数は多くないものの、相続や遺言などを中心に数件の相談が寄せられました。「愛楽園」では、国賠訴訟後に補償金が支給されたことで、それぞれの方がお金を持っていることを狙っての消費者被害などが多いとのことでした。

最後に

「ハンセン病」の歴史は、その時の社会によって「差別」が一方的に定義され、ある人たちを「隔離」し、その人たちの人権を奪ってきた歴史です。その差別は今も続いており、ハンセン病ではなくても、その根を通奏低音的に同じくするいくつもの差別が今も世の中にあると感じます。それはある時は「偏見」であり、いわれのない「排除」として現れます。

私たちは常に、その「差別」が生み出されていないかということに感覚を研ぎ澄ます必要がありますし、自分自身を含めて、ともすれば人は知らないうちに「差別」をする側にまわるものだという危惧を持ち続けなければならないと思います。私自身、今回の「愛楽園」相談会に参加させて頂いたことで自分事としてそのことを強く感じました。

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