『戦争責任者の問題』伊丹万作
伊丹万作という方がいます。映画監督の伊丹十三さんの父親に当たる方です。その伊丹万作が戦後1年もたたない頃に発表した「戦争責任者の問題」という文章があります。
『戦争責任者の問題』伊丹万作(青空文庫掲載)
:「青空文庫」=著作権保護期間を過ぎた作品を集めたネット上の図書館)
以下本投稿記事の引用は青空文庫『戦争責任者の問題』伊丹万作より
この文章は、戦争責任というものを「私」でない「誰か」のせいにするという態度こそが、目の前に起こっていることへの荷担になり得るのだということを伝えてくれています。
つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
「私」という主語で語ること
「誰か」のせいにしないということは、「私」という主語で語ること。
「私」という主語で語ることがない限り、人は自分を、無責任な「当事者でない」存在とします。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
伊丹万作のこの言葉が現実にならないためには、私たちひとりひとりが「だまされた」と言う傍観者でなく、当事者として行動するしかないのだと思います。
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