『140文字ぴったりエッセイ』ってご存じですか?
『140文字ぴったりエッセイ』ってご存じですか?
え?
『140文字ぴったりエッセイ』を知らない?
いや、知らなくて当然です。
私が勝手に作ったものですから。
ルールはたった一つ。
最後の文章の「。」で140文字ぴったりになること、それだけです。
twitterの文字制限は140文字。
その140文字ぴったりになったエッセイをtweetするという
それだけのお遊びです。
ただ、やってみると、そこにいくつもの発見がありました。
入れ替えてみる言い直してみる
なぜ『140文字ぴったりエッセイ』を始めたのかは覚えていません。
twitterでなにか感じたことを書くときに、
140文字制限ぎりぎりいっぱい使おうと思った、
そんな軽いきっかけだったように思います。
ふっと日常で感じたこと思ったことを
140文字ぴったりに納めてみる。
まず、その感じたこと思ったことを文章に書いてみる。
ところが、もちろんですが
一発で140文字ぴったりになるはずはありません。
言葉を入れ替えてみる。
言い回しを変えてみる。
いや、この言い回しは私の感じていることと違う。
また変えてみる。
「、」はいるのかいらないのか。
そもそも私は別のことを言いたいのではないか
そんな苦闘?の末、140文字ぴったりにしてtweetします。
最近はあまりやっていませんが、こんな感じです。
人からの不意の一言に、いつまでも心が縛られることがある。時に自分と一体化してしまう見えない鎖。呪縛をかけるのも言葉なら、その結界を解いてくれるのもまた言葉なのかもしれない。呪縛の言葉でなく、空に解き放つような予祝の言葉。限りのあるこの道「予祝」を口にして歩いて行きたいと思う今日。
— 青木文子 (@bun_aoki) August 1, 2013
相続の仕事で戸籍を取得することがある。数年前、ある方の戸籍を辿っていって取り寄せた一枚に釘付けになった。同じ戸籍の中で、世代の違う複数の人が同じ日に亡くなっている。1歳前の赤ちゃんも40代の女性も70代の男性も。日付は昭和20年8月9日、場所は長崎。その日、そこで起こった出来事。
— 青木文子 (@bun_aoki) August 6, 2013
対話とは、文字の意味からいくと「向かい合って話し合うこと」。言葉の表面上の意味だけでなくて、声色やバイブレーションをリアルにやりとりすることなんだな。その言葉とその人の身体が伝えたいことの差異はすぐに伝わってくる。逆にその体温を感じながら話すことで溶けるものって沢山ある気がする。
— 青木文子 (@bun_aoki) June 25, 2013
今年の梅仕事は梅ジュースの4Lと5L。放置してある梅の木から頂いてきた梅だから?か、次第に綺麗な泡が。最終的に盛大に発酵して、期せずして梅酵素になりました。保存するために瓶に移し替える時も、力強く泡がシュワシュワと。今年もエアコン無しの我が家、美味しい夏のお供として頂いています。
— 青木文子 (@bun_aoki) July 14, 2015
制限があるからこそ開く扉がある
誰から頼まれた訳でもない『140文字ぴったりエッセイ』。
もっと沢山の文字数を使えれば!と思うこともあります。
ただ、こんなお遊びの中で感じているのは
制限があるからこそ開く扉がある、ということ。
140文字という制限があるからこそ
みつけられる言い回しや
140文字という制限があるからこそくっきりしてくる
私が本当に伝えたいこと。
そもそも人の人生も有限という制限の中。
その中でその制限があるからこそ開けられる扉が
あるのかもしれません。
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